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船場ものがたり 2016年秋号『建物・しつらえ』

船場ものがたり Disovery SENBA 2016年秋号では五感・吉野・神宗の3店舗を中心とした「建物・しつらえ」がテーマです。店構えや船場の地にまつわる、ちょっとしたお話を紹介いたします。

 


日本人の心に響く洋菓子を作る。

「お米の純正ルーロ」や「マドレーヌ ええもん」などお米をつかったスイーツが代表的な「五感」。

大正レトロの重厚さ漂うビルの中にあるサロン付の洋菓子店です。

レトロビルとお米スイーツの組み合わせで、訪れる人々を魅了。

日本人の主食「米」。それは米を炊いた「ご飯」が「食事そのもの」を意味するところにも表れています。「米」という文字は、収穫までに「八十八」もの手間をかけるからだといわれているように、農家さんが手塩にかけて育てたもので、昔から親が子を躾ける言葉の「米一粒でも残すな」には、「自然の恵みへの感謝」と「食べ物を大切にせよ」という心があるのでしょう。 五感では日本人の食を支える「米」を使ったスイーツで農業に携わる人々と共に、自然の恵みを生かし、「日本人の心に響くお菓子」を、心を込めてつくっています。

テーマは「自然と愛」


現在の1階ショップ。「火(釜火)」「水(鮮度)」「風(季節)」「土(素材)」「愛(思いやり)」の、5つのコンセプトに沿ったストーリーのある商品が、ショーケースに常時30種類以上用意されています。

登録有形文化財・新井ビルの歴史

1922年
報徳銀行大阪支店として竣工。
1934年
新井証券 株式会社が取得し、本店として利用。
1976年
ステーキレストラン「弘得社スエヒロ」1階にオープン。
1997年
登録有形文化財に登録。
2005年
洋菓子「五感北浜本館」1階にオープン
2013年
大阪市「生きた建築ミュージアム」に選定。
北浜周辺は明治以降、金融街として発展し、五代友厚らを発起人とした大阪株式取引所を中心に、数多くの銀行や金融関連企業の社屋が建てられました。新井ビルも、元は報徳銀行の大阪支店として1922年(大正11年)に建てられた近代建築で、1997年に登録有形文化財に登録されました。

新井ビルの設計者は明治・大正期に活躍し関西建築界の長老と呼ばれた河合浩蔵です。大正時代、銀行は信用を象徴する重厚な古典的様式で建築されるのが一般的でした。一方新井ビルは、1階部分は古典的な重厚さを残しつつも、2階以上は当時普及し始めたタイル素材に用いるなど、モダンで軽快な印象に。河合氏が60代の円熟期に入っても、常に新しいデザインに挑戦する姿が伺えます。

先代オーナー 新井真一氏
新井ビルの先代オーナーである新井真一氏は、1970年の大阪万博で企画・設計時の事務総長を務めた人物です。 五感店主がオーナー・新井真一氏に直談判し、できるだけ竣工された時の雰囲気を残して改装し、2005年に五感北浜本館がオープンしました。

紳士淑女の寛ぎ空間、北浜サロン


新井証券時代 1階営業室 と 現在の五感 1階フロア
新井証券時代の吹き抜けの1階営業室をそのまま活かし、開放感あふれるショップに。入口ではドアマンがお出迎えしてくれます。

建築当初から使われていた奥の階段で2階に上がれば、かつて執務室だった部屋をそのまま活かした喫茶サロンが。高い天井と大きな窓はすべて建設当初のもの。 クラシカルな調度類が醸し出す、大正時代の西洋建築ならではの上質な雰囲気の中、鮮度の良いスイーツ・フレンチトースト・軽食が楽しめます。 五感2階 北浜サロン

文楽の舞台に立つ、老舗寿司。

天保12年(1841)年創業、旅籠屋をしていた初代・吉野屋嘉助が、一念発起して寿司屋をはじめたのが、吉野本店の始まりです。一日がかりで材料を仕込む、手間暇かけた箱寿司は、その美しさから「二寸六分の懐石」とも呼ばれています。
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吉野が店を構えるのは文楽『冥途の飛脚』の舞台、淡路町

大阪市中央区淡路町。淡路町といえば、文楽・歌舞伎に造詣が深い人ならば近松門左衛門作「冥途の飛脚」を思い出すことでしょう。この作品は、「曾根崎心中」「心中天網島」と並んで三大傑作の一つ。淡路町は、主人公・忠兵衛が飛脚屋「亀屋」を営んでおり、物語のメインの舞台となっています。
昭和期に行われた大阪の区画整理の時に、町名が変更になる話が出ましたが、「冥途の飛脚」の舞台である淡路町の名前を無くしたくないと願う地域の働きで、地名が残されることになりました。
現在、吉野の店策には吉野五代目 橋本 芳藏氏により「梅川 忠兵衛 ゆかりの淡路町」(書は人間国宝・浄瑠璃太夫の竹本津丈夫)という石碑が建てられています。

近松門左衛門の代表作『冥途の飛脚』は実話を元にした飛脚横領事件の話

一、運命の分かれ道~淡路町の段~
「・・・夜食しまふてはや寝よ」と金懐中に羽織の紐、結ぶ霜夜の門の口、出馴れし足の癖になり、心は北へ行くゞと思いながらも身は南、」
淡路町にて手紙や荷物、金銭などを運ぶ飛脚屋「亀屋」を営む忠兵衛が、新川の遊女・梅川の身請けのため、蔵屋敷に届けるはずの公金を横領し、2人で忠兵衛の実家・奈良 新ノ口村へ逃げる話。
「淡路町の段」での見どころは、忠兵衛がまっすぐ蔵屋敷へ行くべきか、梅川の顔を見てから行こうかと迷った末に、ついに誘惑に負け、羽織が脱げ落ちるのも気づかず夢中で梅川のいる越後屋を目指す「羽織落とし」と呼ばれるシーンです。この後、大金を持った忠兵衛は分別を失い、その大金を使ってしまいます。

唯一無二の寿司の文字「鮺」。看板の歴史

店頭で見られる看板の印象的な字は、明治の大書家「比田井天来」先生の蹟。比田井天来先生は日本酒「白鷹」「白鹿」も書かれています。
「寿司」には2種類あり、新鮮なネタを提供する「江戸前寿司」は「鮨」、時間をかけて食べごろになっていく「箱寿司」「押し寿司」は「鮓」または「魚へんに差」という字が当てられます。 比田井先生は「魚へんに差」の漢字をアレンジして「鮺」という字にし「吉野鮺」としたため、世界で一つしかない「すし」の字を掲げることとなったのです。

和菓子屋のようなショーケース

ガラスのショーケースに寿司折や巻き寿司を並べたのは、今から40年ほども前のこと。当時は美しく整然と並べられた寿司は珍しく、外からショーケースを目にした通行人から和菓子屋と思われることもあったのだそう。

北海道白口浜産天然真昆布と春摘みの山椒が香る、ふっくらやわらかな塩昆布のお店「神宗」。先代が伝統の味と共にこだわった、上方町人文化の風情を再現したしつらえ。

軒灯に、末永くお客様をお迎えできるよう、願を込めて

瓦葺の中央に掲げるのは、当時を再現した軒灯。お店の顔となる外付け用の看板で、これを掲げたお店は代々永くいつまでも繁盛する証とされたそうです。


天明元年(1781年)、西船場と呼ばれる靱(うつぼ)で海産物問屋として創業。江戸幕府老中・田沼意次が「株仲間」を奨励した頃で、神宗だけでなくその年を契機に創業する企業や店は多く存在します。
神宗の今の佃煮の原型ができたのは、嘉永年間(1848年)、船場からさらに西の雑喉場(今の京町堀)に移転したころ。海産物問屋で培った素材への目利きと、品質への妥協を許さない心意気を連綿と受け継ぎ、磨いてきました。
明治時代にには国内の産業活性化のために、各地で開かれた内国勧業博覧会に神宗も佃煮を出展。数々の表彰メダルを獲得しました。大正3年には、天皇に鰹田麩を献上し、宮内省から礼状を賜った記録があります。
明治35年 雑喉場での神宗

「大坂の朝は雑喉場から」・・・かつての賑わいを伝える橋柱

神宗が、江戸時代末期から太平洋戦争で店が焼けるまで商いをしていた雑喉場。旧百閒堀川に架けられた橋が雑喉場橋です。 「大坂の朝は雑喉場から」と言われ、ここから荷揚げされた魚はトロ箱に詰められ、次々に店先に運ばれ競りにかけられたと言います。
明治8年に鉄橋になり、橋柱はガス灯が掲げられました。明治初期はまだ木製の橋が多かったことから雑喉場が大坂の主要な通りであったことを示しています。戦火で焼失したガス灯ですが、昭和60年に復元し、大坂の記念碑として展示しています。

真っ赤な雑喉場提灯

淀屋橋本店の待合いには、頭上に大きな赤提灯が吊り下げられています。これは、道頓堀の芝居の劇場に贈られた提灯を再現したもの。
江戸時代、雑喉場の人は、道頓堀の芝居の大後援者でした。神宗の6代目店主も芝居好きで、雑喉場から舟に乗って、道頓堀まで川を下ったそうです。
太い文字で「ざこば」と書かれた書かれた字の横には、片岡仁左衛門の紋。これは「片岡仁左衛門を贔屓しています」というしるしです。

べか車で商品ディスプレイ

べか車とは、関東の大八車と同様、人力車で大坂特有のもの。荷を運ぶ時、一人が前で綱をつけて引っ張り、もう一人が後ろから車を押して進むようになっています。当時、橋を渡る時は橋が傷まないよう、車輪を外せるようになっていました。

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