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船場ものがたり 2017年夏号『船場のヒト』

江戸時代の大坂は、町人の自治で治めていました。なぜ大坂では町人がこれほどまでにパワーがあったのでしょうか? 今回は船場の人々をテーマに、江戸時代の大坂町人の暮らしや上方芸能をご紹介します。

 

株仲間政策

田沼意次が老中を務める江戸時代後期には、株仲間政策が非常に重要視されました。株仲間とは幕府・諸藩の許可を得た独占的な商工業者の同業者組合のこと。租税による収入と地方商人の統制のために、株仲間を次々と公認していきます。大坂では油・木綿・生魚などの生活必需品の株仲間が発達し、政権末期には、大坂だけで約130もの株仲間が公認されていました。

株仲間の組織

株仲間には「寄合」という株仲間の最高意思決定機関がありました。今でいう株主総会にあたるもので「行司」とよばれるまとめ役が選ばれ、奉行所などや、株仲間の管理などを行い、今の株式会社社長のような役割を果たしていたと言えます。 株仲間は新しく加入するものの審査を、全体に関わる問題として厳しくしたり、さらに既存の仲間であっても跡取りを厳しく審査し、道楽者や怠け者は排除されたと言います。また、多く税金を納めた大商人は、本来武士にしか許されない名字帯刀を許されることもありました。

大坂町民の気風を生んだ町民自治

大坂は江戸から派遣された町奉行が治めていましたが、その末端は町年寄などの町民代表が中心となって自治を行いました。町年寄は総年寄の指揮下のもと、町ごとにおかれた町会所で、触書の町内伝達、消防・防災取締、ばくち取締など、多岐にわたる職務がありました。このように、町の運営や秩序の維持に直接携わったことが、町民自治の大坂の気風を生んだのでしょう。


「だんさん」「ごりょんさん」は船場言葉!

船場言葉は大阪船場の商家で用いられた言葉。昭和中期まで、折り目正しい大阪弁の代表格として意識されていました。商いという職業柄、丁寧かつ上品な言葉遣いが求められたため、京ことばの表現を多く取り入れ、独自のまろやかな語感・表現が発達しました。




船場の旦那・ごりょんさん

大坂の「だんさん」は、織田作之助の『夫婦善哉』に代表されるように頼りないのが一般的でした。男が「ぼんぼん」(金持ちの道楽息子)で、女性がしっかりとしており「ごりょんさん」が商売を支え、家内を切りまわす職業婦人であったといいます。


近世大坂の文化と学問

大坂の経済的発展により町民の社会的地位が向上し、彼らを中心に大坂独自の上方文化も開花しました。

談林俳諧の広がり

江戸時代後期には、自由で軽妙な作風の談林俳諧が流行し、大坂だけではなく、京都・江戸にまで広まりました。『好色一代男』の著者・井原西鶴も、大坂町人のことして生まれ俳諧に親しみました。西鶴は生国魂神社で見物数千人を集め、一日一夜で4,000句を詠んだ記録が残されています。

人形浄瑠璃(文楽)と近松門左衛門

大坂で人形浄瑠璃が盛んになったのは江戸時代中期ごろ。竹本義太夫によって大成されました。1703年、近松と竹本が協力した世話浄瑠璃『曽根崎心中』が大当たりをとり、その後竹本座と近松は現在でも知られる『冥途の飛脚』や『心中天網島』などの名作を残しました。

町人の学問所・懐徳堂

江戸時代中期に大坂の商人たちが設立した学問所。1724年、大坂の豪商が出資し、儒学者・三宅石庵を学主に迎えて船場(現在の大阪市中央区今橋3丁目)に懐徳堂を設立しました。1726年に江戸幕府公認となりましたが、運営のための財政は町人によって賄われ、懐徳堂が「町人の学校」とよばれる所以でした。

大坂の洋学、適塾

鎖国下でも、知識人たちはオランダをはじめとする諸外国の学問「洋学」を学び続け、それが維新以降の近代化の素地となりました。1838年、緒方洪庵は大坂瓦町で医師をを開業すると同時に、蘭学塾適々斎塾を開きました。また、日本最初の除痘所を開き、当時の流行病コレラ対策にも尽力しました。適塾は全国から洋学を志す三千余人が学び、大村益次郎・橋本左内・福沢諭吉など幕末から明治にかけて活躍する人物を数多く輩出しました。


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